津田 季穂(つだ すえお)の部屋

 

  私は思う

 

偉大な壮麗な人を驚倒させるような

いわゆる一大惑星となるよりはむしろ野に咲く名も知れぬ

小さな花となることこそ望ましい

 

ダリアや薔薇にはさほど驚かないが

あの小さな小さな黄色や紫の花をつけた

心なき人に踏みつけられてしばらく咲くあれらの花にこそ

もっとも驚くべき神の創造の神秘を見つけませんか。

 

私はあれらの名も無い花の美しさを見ると胸が熱くなります。

摘むことはできない

踏みつけるか 愛でるか 二つにひとつ

そんな画家になりたい

略 歴

 

1899  日光に生まれる

1914  猟銃事故により右目を負傷

1917  中村不折、関根正二らと太平洋画会に通う

1919  院展に入選し美術院に入る

1922  美術院洋画部解散などの事件以後展覧会を離れる

1943  44歳の時、洗礼を受ける。洗礼名 ヨゼフ。 その後鳴門へ。

1945  結核性骨膜炎にかかり 右足切断。

1946  鳴門の画家のあいだに「ベニウズ」生まれる。

1948  「ベニウズ」に参加。

1952  安芸オブレート会修練院で着衣式。

1959  安芸、海の星教会で修道終生誓願。

1960  福岡、古賀教会に不妊。

1968  徳島、阿南教会に転任。

1981  帰 天。

津田季穂 作品集

私と津田先生    

 

 昭和48年5月 日動画廊から独立して高宮画廊が開く初めての個展が津田季穂展でした。

私もちょうど3月に卒業したばかりではじめての画廊の仕事、何もわからないまま薄っぺらな知識のまま怖いもの知らずで絵を売りこんでいた頃に開かれた津田先生の展覧会。小さな作品が100点近く飾られ初日には大勢のお客様が朝から途切れることなく来廊され、津田先生はというと、ソファに座り煙草をくゆらせ、時々微笑みながらうなづいていらっしゃいました。もっぱら聞き役で、たまに話される言葉は短く、その声は小さいながら力強くよく通るのでとても聞きとりやすかったのを覚えています。

 

 鳴門からたくさんの方々が来られて酒盛りが始まります。パーティーは5時からでしたがみんなそれまでに出来上がっていました。サンドイッチ、おでん、寿司桶、手料理、それに蒲鉾を作っておられた雑賀(さいが)さんからの天ぷらや竹輪にみなさんが持ち寄ったごちそうで、テーブルの上はホテルのパーティーよりも豪華でした!

 

 食べるものも少なくなった7時ころにはまた二次会の始まりです。当時鳴門高等学校教諭の高砂先生のごあいさつのあと、カラオケ大会、いえ当時は伴奏なんてしゃれたものは無く手拍子と足拍子で歌うだけ。その高砂先生の大きな声で大きくはずれた?メロディーにみんなヤンヤの大喝采で盛り上がりました。一番終わり頃に津田先生の哀愁をおびた歌の登場です。その声は今でも耳の奥に甦ってくるようです。

 

 本当に楽しかった展覧会。お陰様で作品もかなりの数が売れて、私にとってはこんな風に画商の道の第一歩を踏み出せたのは本当に有難いことでした。

 

 ブログでも書きましたが先生が亡くなられて20年近くになった今でも沢山の方々の心のひだに津田先生の思い出が大切にしまわれているのです。

その方々にそれぞれの思い出を語っていただくこのコーナーに参加頂いて、津田先生のことを皆様に知っていただくことができれば幸いです。

 

(高宮剛一)